武藤 峯紹

武藤峯紹 むとうほうしょう(生没年不詳)旧鷹巣町


 

太田の神職・武藤家の第六代・宝楽院峯紹は、京都に遊学し、学識深く、私塾を開いて村内の子弟を教育した。たいへんな法力を持つ修験者で、祭典の日には薪を燃やしその炎をくぐったり、釜の煮え湯に入ったりして見せた。また、人々のうわさになっている狐との術くらべもした。

「太田の法印様とバッキャ味噌」の逸話も残っている。神楽、能楽に精通し、歌舞伎を好み、太田の郷土芸能としての番楽を完成した人である。生年も没年も不詳であるが、武藤家の墓に彼が建てた石碑があり、嘉永七年(一八四五)五月十四日と明記してあるので、その頃生存していたことは確かである。

幕末の頃、近郷に大きな影響力を持つ太田の長谷川塾は、寛延二年(一七四九)から開かれているが、一時中断、天保年間に峯紹により再開され、彼の学識を慕って多くの弟子達が集まった。万延元年(一八六〇)峯紹が老衰のため教育ができなくなり、長谷川伊右衛門(家政)に引き継がれ、当時としてはたいへん進歩的な教育が明治初めまで続けられる。

今年三月「太田番楽復活十周年記念誌」が観光された。長い間、口で伝えられてきた台詞を太田番楽連中松尾和一氏が、こまめに記録し、解説を加え、写真や思い出をつけた貴重名冊子である。

肥沃な耕地を持ちながら洪水のたびごとに荒廃し、村は半減するという状況にあった太田新田村も、天保十五年に大隧道が完成し、安定した。以来、毎年秋には神明社に方のしてきた。古風な表舞十二番と源平合戦を芝居風に伝える裏舞十二番を創作した峯紹の芸術的な才能の偉大さを思うのである。

(資料「栄郷土史」、松尾和一氏談)

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