佐藤 敏吉

佐藤敏吉 さとうしゅんきち(1886~1965)旧鷹巣町


「坊沢のシュンキ」といえばこの近くでは人に知られた山師であった。昭和十六年から二十六年まで緑ヶ丘小学校の近くに炭山があった。戦中、戦後の物の不足な時代であったので、最盛期には従業員百五十四人、月産二千二百㌧の石炭を前山駅に鉄さくで運び、関東方面に送り出していた。「東洋炭鉱」といっていたが、もともとは敏吉が切り開いたもので、彼は坊沢にあった自分の家をここに移転し住んでいた。

当時、緑ヶ丘の分校に勤めていた私たちに「この近くには砂鉄や石炭がいっぱい眠っている。この地下資源を掘り出し米代川に橋を架けて送り出さなければ」と、夢を語っていた。

敏吉は明治十九年十一月三十日、坊沢の佐藤太吉の長男として生まれ、坊沢小学校高等科を卒業する。

一時満州に渡るがほどなくして帰郷、青年会長となり同志等と深関を開拓。当時の模様を妹の大川止美恵さんは「珍しいことは何でもやる人で、ラッパのついた蓄音機を持ってきて年寄りを集めて聞かせていた。老人たちは“この箱の中になんぼ小さな人っこはいってるべ”といっていた」

昭和二十二年、山の分校にも新制中学校が併置され、体操場が教室になった。新しく体操場を増築しなければならないのだが、坊沢村の財政はきびしく、村議会に反対意見が多かった。この時、炭山の敏吉じさまは、村会議員を戸別訪問して説得し、二十四年五月、立派な体操場を竣工した。

昭和四十年彼は八十歳の生涯を閉じ、炭山も、学校も、そのあとは今草原になっているが、無精ヒゲをはやし乃木大将に似た彼の風ぼうは私から消えない。

(資料:妹・大川止美恵氏談)

 

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