岩川 碧涯

岩川碧涯 いわかわへきがい(本名 義郎)(1889~1966)旧鷹巣町


 

中央公園の見はらし広場に岩川碧涯の句碑がある。幅約二㍍の堂々たるもので、「鴬や雪の高嶺を奥に重ね、碧涯」と刻まれてある。遠く南の方に見える森吉山の雪の嶺々の中から鴬の声が聞こえてくるような気がする。

この句碑は昭和四十七年八月碧涯七回忌に遺族たちが建てたもので、作品は彼の恩師石田三千丈の選による。

碧涯は本名を岩川義郎といい明治二十二年、鷹巣町・岩川作治衛門家の第十一代易五郎の長男として生まれる。岩川家はその昔は農業であったが、義郎の代になって南新町(現大町四の十七)に印刻業を営み、岩川ハンコ屋といわれていた。戦後、町村合併まで町会議員を二期つとめる。

彼の俳句生活は十七歳にはじまり、昭和四十一年、七十七歳で没するまで六十年間におよび石井露月、島田吾空を師とし、格調の高い佳吟を数多く残している。

大正から昭和初期にかけては栖鷹吟社を創立し、同人達の家を輪番にまわり、月例句会を開催。県北や各地をまわっての句会の指導に大きな業績を残し、その作品は県内誌「俳星」、全国誌ホトトギス系の「芹」で活躍した。

町に文化行事の少ないその頃俳句の仲間達が米代川の流れに舟を浮べ、大自然の景観を眺めながら句作をし、七座天神へくだることを楽しんだという。どちらかというと沈思黙考型の彼ではあるが、内に秘めるものは厳しく六男二女の親として「人に迷惑かけるな、世のためにつくせ」と教え、皆りっぱに成長させている。

辞世の句

逝く秋や吾の後に冬来つる

(資料:村上薫氏調査手記、二男・満雄氏、三男・修也氏談)

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