門屋 養安

門屋養安 かどやようあん(1788~1873)旧鷹巣町


 

旧七日市村出身の名医、門屋養安は、雄勝郡院内銀山で大きな功績をあげた人である。

養安は天明八年(一七八八)七日市村に生まれ、当時隆盛をきわめていた阿仁町小沢銀山の抱え医者であったが、藩の命によって文政六年、三十五歳の時院内銀山に派遣された。

院内銀山は雄物川の最上流域にあり、佐竹藩の直轄経営により、最盛期には山小屋千軒、下町千軒(人口一万~一万五千)と栄えた所である。

藩の山方役工藤家の古文書によると、「天保十一庚子(一八四○)門屋養安の提唱により、銀山抗内夫の湿気病(俗にヨロケ病)の予防対策のため、療養所を藩が建て、町医者二人を交互に出仕させ、養安の指導によって療養に当らせた。」とある。

また、養安は山奉行の命によって、その介添役も務め、天保六年から明治二年までの三十四年間「院内銀山日記」を書きつづけた。この日記は県の博物館に保存され、これを読むと、当時の銀山を主体にあらゆる方面にわたっての庶民の生活の様子がよくわかる。弘化元年(一八四四)十月五日に種痘を行ったことも記されている。

銀山奉行の片腕となって活躍した養安は、銀山に入ってくる物売りの監督、宿屋、風呂屋の経営などにもあたった。(今の保健所の役か)

当時の掟書によると、銀山に出入りする商人その他一切は御台所という藩役所で検査を受け吟味されたという項目があることから、当時この役を担当した養安の権力の大きかったことが想像される。

養安は明治六年、八十二歳で歿し、基地は院内銀山三番共葬基地にある。

門屋養安のことについては村でも知る人がないが、院内銀山の記録から七日市出身のことがわかり、村上薫氏が調査したものである。

(資料:村上薫氏調査手記並びに「秋田県地名辞典」)

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