津谷 泰司

津谷泰司 つやたいじ(1883~1977)旧鷹巣町


 

大正から昭和初期にかけての坊沢村は、争いごとがなく、平和な時代であった。それは医師であり、村会議長である津谷泰司氏からの影響力が大きいといわれている。

泰司は明治十五年四月、山本郡常盤村、与斎源蔵の次男として生まれ、後坊沢村の津谷喜三郎の養子となる。若い頃から大変な勉強家で、独学で入学資格をとり、東京慈恵院医学校に合格、明治三十六年卒業、同四十一年三月、坊沢村に開業する。近郷に医師の少ない時代なので人々にとって大きな光明であった。

まだ健康保険制度がなく、医療費を払えない人も多い時代に「ある時払いの催促なし」の彼のやり方は、村人に尊敬の念をもってむかえられた。まさに農民の心をわかる慈善事業であった。更に独学でドイツ語を究め、医術の研さんを積んだので、坊沢の津谷医院はいつも患者があふれていた。

彼は大正二年、村会議員に当選、昭和三十年の町村合併まで十一期、四十三年間つとめる。その間殆んど議長となり、佐藤音吉村長と共に、村有林の造成につとめ、その収入によって無税の村をつくるという百年の大計を立てる。温厚な人柄でスケールの大きいこの案に反対する人はなく植林とその管理は着実にすすめられた。

彼の家はまた、地主であり自作農であった。若勢(使用人)を督励して、計量器を使って肥料の配合の仕方や、温度計を使って苗代の水温を計りながらの水の調節など、科学的な稲作を実行にうつした。朝夕は必ず水田を見まわり、九十五歳の長寿をまっとうした。「くよくよしないこと」「必ず体をうごかすこと」「腹八分にして食べすぎないこと」を信念をもって実行しつづけた人である。昭和五十二年没。

(資料:「北秋文化と人物」、長男・津谷忠夫氏、二階堂善三氏談)

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