二階堂 キヨ

二階堂キヨ にかいどうきよ(1907~1972)旧鷹巣町


 

「大きくなったら、学校の先生になりたい。いやきっとなってみせる」家のすぐ近くに学校があり、毎日学校で遊び、勉強の風景を見ているキヨにとって、学校の先生になることが幼い頃からの夢であった。

キヨは山本郡二ツ井町切石の佐藤子之吉の次女として明治四十年に生まれた。大正十四年、念願かなって秋田県女子師範学校を卒業、山本郡仁鮒小学校訓導となる。

昭和五年、鷹巣小学校訓導二階堂善三と結婚、同年四月綴子小学校に転勤、昭和十八年鷹巣小学校に転勤、同三十二年、教壇を去る。この間の三十一年間は、誠心誠意、子供のために情熱を傾けた教員生活であった。

退職と同時に町の婦人会長として迎えられるが、山積する諸々の課題解決に精魂を傾け、郡県の組織活動のトップに立って指導力を発揮することになる。

その職歴は、町婦人会長、郡婦人会長、県副会長、結核婦人会長、同県副会長、赤十字奉仕団北秋委員長、少年保護委員、県婦人教育指導委員、町選挙管理委員長等々、肩書きの最も多いときには四十種にもおよんだ。

婦人会は社会のため奉仕活動をすることが多く、議論百出ときたま混乱することがあると彼女は静かに聞いていて、理路整然と説明し納得させることが常であった。当時郡婦連会計担当の成田ミネさんは「会長は数字にきびしく、会計報告の一円の誤差を見つけるため、夜中の一時までがんばってくれた」とまた二階堂善三氏は「結核予防全国大会のパネルメンバーとして出場のとき、専門用語である英語やドイツ語を、夜を徹して勉強していた。」と語る。そして昭和四十七年、倒れる前日まで東奔西走し、床について五十日目に肺癌で亡くなった。生前の功により勲六等宝冠章ならびに日本赤十字社より銀色有効章、明るい正しい選挙、青少年保護育成等々の表彰を受けた。

(資料「秋田県教育退職写真銘鑑」二階堂善三氏、成田ミネ氏談)

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