桜庭 嘉七

桜庭嘉七 さくらばかしち(1863~1926)旧鷹巣町


 

前山駅の川向いに見える集落蟹沢の後の山の林の中に日蓮宗のお寺がある。このお寺は「七面結社」といい、明治四十一年桜庭嘉七が建てたもので、当時は、県北各地に三百人を超える信者をもち、毎日のごとく人の出入りでにぎわっていたという。

中はかなり広い畳の間で、拝壇のわきには色鮮やかな法衣姿の嘉七翁の座像が安置されている。前庭には大きな自然石の碑があり、その碑文と、いい伝えによると、

嘉七は文久三年九月六日、桜庭儀助の長男として生れた。幼少の頃より病気にかかり、あらゆる療法を尽したがなおらず、死を覚悟しなければならなかった。

二十一歳の時、日蓮宗の信者三熊勘太郎氏(能代市朴瀬)をたずね、その教を受けた。彼は深く感動し、教えにしたがい修業を積んでいるうちに、今まで不治の病と諦めていたのか忽ちのうちに全快してしまった。

その後、彼は山奥に入り難行苦行を積み重ね、いかなる苦しみにも耐え得る丈夫な精神力と体力を鍛えあげ、白神岳、本山太平山、来満岳、森吉山、八森薬師、岩木山、丸山の八つの高峰に「一天四海皆帰妙法」の石の塔を建て布教につとめた。

明治三十年(三十四歳)七月に現在地に小庵「七面堂」を建て、多くの信者を集めた。ここを訪れる人々の多くは、医者にみはなされた患者で、彼の祈祷と、手当てによって病気が直ってゆくというのであった。その他、未来にむけての予言も聞くこともできた。そして、「七面金融組合」を組織し、明治四十一年には「日蓮宗教会場七面結社」が創立された。

大正十五年、彼の死後、長男角五郎も修業を積み後を継ぎ、繁栄を維持していたが、時がたつにつれ信者も減り、現在は県北各地に三十名程度であるという。(資料:碑文、孫・伊藤ミヨ、曽孫・桜庭道夫談)

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