嶺脇 及多

嶺脇及多 みねわききゅうた(1868~1945)旧鷹巣町


 

坊沢の嶺脇家は代々神明社司官として奉仕してきたが、第十四代及多は、郷土においても、中央においても、教育家として大きな足跡を残された人である。

年輩の方なら、昭和の初めごろ、坊沢の村街道で、恰幅のよい和服姿の彼に会ったことを思い起す人があると思う。

及多は明治元年、嶺脇秀司の長男として生れた。学者であった祖父徳英の感化もあり、自らよく学を修め、十七歳で坊沢小学校の代用教員となる。そして学問に秀いでた彼はまもなく訓導(教諭)の資格を取得、二十三歳にして坊沢小学校長に任命される。

当時の坊沢村は、明治十年に小学校が永安寺に創設、同十三年に黒沢に分教室、同十六年には大向、大野尻と蟹沢に巡回授業所ができたばかりで、校舎はなく民家での間借り授業の時代であった。そうした中で彼は教育に情熱を傾けその実績が認められ、明治三十二年(水沢小学校長の時)表彰されている。

明治三十二年、中等教員資格取得、宮城県師範学校教諭、同四十三年(四十二歳)陸軍中央幼年学校教授となる。同四十五年東京に出て、帝国女子専門学校主幹となり二十余年間私学興隆に努力した。その間に五男二女の親となり、みな高等教育をうけさせ、息子二人は東大を卒業している。

大正十三年(五十六歳)県社七座神社社司となる。七座神社は、明治三十六年に焼失し以来仮宮であったが、彼は就任と同時に、社殿建築にとりかかった。

彼の人徳を慕う人々が多く、大館、阿仁、能代方面からも浄財が集まり、総ヒバ、銅板屋根の豪壮な現社殿ができたのは昭和二年であった。自来五月八日の祭典には毎年、この地方全域の老若男女が集まりにぎわっている。

(資料:「北秋文化と人物」および孫・嶺脇勉氏談)

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