山内 留五郎

山内留五郎 やまうちとめごろう(1889~1955)旧鷹巣町


 

「村の発展は道路から」

うす暗いランプの下に村人一同を集めての例会で、会長山内留五郎は、いつもの口癖でこう叫んでから協議案件にはいった。

糠沢の川向いの集落「向い黒沢」二十二世帯は、今でこそ橋があり、摩当からの道路も舗装されたが、ひと昔前はまさに陸の孤島であった。

留五郎は明治二十二年、栄村大沢の田村兵左ェ門の三男として生まれたが、三歳の時、姉の婚家である綴子村、山内為五郎の養子となり育てられた。

糠沢分教場、綴子小学校を卒業後、農業に従事していたが、村の若者たちと語らい青年会を組織し、自ら会長となり、まずここの弊習である賭博を一掃した。警官の眼のとどきにくいこの地は賭博の安全地帯で、他からも人が集まり青田や家屋敷を賭ける者までいるという状態であった。中には「村の娯楽をなくするのか」という声もあったが、その非をさとし断固として気風を一変させたのである。

やがて部落会長、農事実行組合長三十余年間は、農家経済の自力更生と、道路を通すことに献身的な努力を傾注した。

孫兵衛沢堤の大改修と耕地の拡張、冬季副業として縄ない奨励、馬産改良のための放牧場の開設、共同精米所の設置、昭和十三年、向黒沢―開沢の林道の開通、二十一年部落に初めて電灯がつく、二十二年八月の大洪水で三隻の船が流失したがその復旧、二十三年、栄村に至る林道の開通等々・・。

集落の南と西の山越え路は人と馬の背でなければ荷駄を運べない悪路であったが、彼と彼に従う人々の努力で改良され現在に至っている。

彼は綴子村会議員、同農会長郡畜産議員としても活躍し、自治功労者として表彰された。村人たちは、その功績をたたえ部落の入口に碑を建てた。

(資料「北秋文化と人物」ならびに畠山喜世治氏談)

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