三国 イサ

三国イサ みくにいさ(1886~1963)旧鷹巣町


 

三国商店は能代市の古いのれんをもつ回船問屋であった。イサはそこの長女として明治十九年に生まれた。

六人娘の長女の彼女が婿養子(六代目喜一郎)を迎えたときはまだ十四歳で、親のひざに甘えてもおかしくないような幼くあどけない花嫁であった。

鉄道の発展と、持ち船の難波で傾きかけた家運の再起を図って、喜一郎夫婦が鷹巣に出てきたのは明治四十五年のことであった。

尋常小学校四年しかでていない彼女に夫は「商売には読み書きが必要」と、毎夜、店を閉めて子どもたちを寝かしつけてからソロバンや習字を教え、新聞記事の解読をし、床につくのはいつも十二時、一時であった。

かけ値なしの安い何でも屋で品数の多い「のしろみせ」は大正三年に始まる第一次欧州大戦の影響も受け、飛躍的に発展する。それは商品仕入れの手伝い、得意先の開拓、銀行借り入れの交渉など、夫も一目おく程、彼女の商人としての才能が発揮された。

しかもこの間に九人の子の母親となっていた彼女は、どんなに忙しくても子供たちの入学式、学芸会、卒業式には駆けつけて欠かしたことはなかった。

商売もすっかり安定した頃戦争となる。あれほどムキになっていた商売からサラリと手を引き婦人会長、国防婦人会長、未亡人でもないのに遺族未亡人会長を引き受け、“兵隊バアサン”のあだ名をいただくほど町のためにひたすら駆け回るようになる。そして終戦を迎える。

昭和二十二年四月、鷹巣町町議会議に当選、県内初の女性議員として三期つとめる。北秋田地方事務所存続をめぐって大館市と争った時には、県会議員を歴訪、県庁に連日押しかけるなど“猛女”の異名をとどろかせた彼女を、「女でよかったよ。男であったらカマドを三つ四つつぶしていたろう」と夫喜一郎は笑って見守っていた。

(資料:次男・三国善二郎氏談)

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