三日田 源蔵

三日田源蔵 みかだげんぞう(1887~1950)旧鷹巣町


 

昭和二十五年三月二十一日、彼岸の中日、正午を告げる消防署のサイレンの鳴る中で、三日田源蔵さんは、一時間もつぶやくように続けていた読経を止め静かに息をひきとった。まことに柔和な表情の大往生である。心配していた浄運寺の和尚リコール問題が、昨夜の壇徒大会で円満解決したことを聞いての冥土への旅立ちであった。

源蔵は明治二十年九月、田代町岩瀬、古家辰蔵の二男として生まれ、三日田家の一人娘の婿養子として迎えられ後を継いだ。

三日田家は米代町一の一にあり、養父吉五郎が雑貨店を営み、ある時、旅の客人から伝授された改良カンテラを売り出し繁昌していた。

大正初期は、各家庭にようやく電灯がついたばかりで、何かあるときは、ガス灯やカンテラがよく使われていた。

源蔵は、器用な手つきで、ブリキを細工し、つぎつぎと新しい型のカンテラを作っては売り出し忽ちのうちに、当町きっての大商店になってしまった。

老舗「三日田商店」の主人の彼が仏教に精魂をうち込むようになった動機は何であったろうか。昭和十年頃から、盛んに写経をし、坐禅をし、朝夕には読経を欠かさぬようになった。

更に浄運寺、秀方大和尚の許可を得て墓地の清掃をはじめたのである。雨の日も、風の日もツヅレ(短かい袷)にモンペをはき、地下足袋を縄で結んで、鍬やショベルを持って働く彼の姿を見ない日はなかった。ときには月光のかがやく夜にもその姿があった。

それは、芸術に打ち込む名人の姿にも見え、また、彼の真意を理解できない人には狂人のように見えたかも知れない。

彼の亡くなった年の六月一日の大火で、町の姿は一変してしまったが、三日田商店の帳場の彼と、仏門で悟道を追求する姿を思い起す人が多いと思う。

(資料:三日田吉治氏手記・武藤タヘ氏談)

 

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