神成 喜蔵

神成喜蔵 かんなりきぞう(1861~1947)旧鷹巣町


 

大正から昭和初期の頃の国道一○五号線は、両側が松林でのんびりしたものであった。

沢口村長 神成喜蔵さんは、風呂敷包みを首にかけきょうも歩いて町に出るのであった。「首が落ちない限りこの大事な書類は失くならない」

酒も煙草もやらない彼は、元禄袖から饀玉をとり出しては口に入れもぐもぐしゃぶるのであった。

喜蔵は文久元年、沢口村小森の神成喜兵衛の子として生まれ長じて上京し、慶応義塾大学に入り、町田忠治(後の農林大臣民政党総裁)等と盟友になる。

村長をしていた父が、国有林払い下げ問題で政府と争っていたが急死したので帰郷し、数度にわたり沢口村長をつとめる。

彼は大変な勉強家であり、官僚や上司にへつらうことが嫌いで、自ら信ずることは断固として実践する人であった。

彼の村長時代、大正十五年、青年訓練所令が公布され。七月一日に全国一せいに設置されたが、沢口村は「財政困難」を理由に設置せず、学校長が左遷されるという騒ぎがあった。

また、昭和三年七月、神成村長は脇神にある小学校を、広い校地を持つ高森岱(現小摩当)に移転新築することを提案した。村は賛否両論、ま二つにわかれて騒然となり議会を開くことさえできなくなった。彼は自宅に議会を招集、僅差で可決、昭和四年五月堂々たる校舎の新築を見ることができた。「村政は教育にはじまる」というのが彼の信念であった。

当時は大変な不況の時代で、村長は無報酬、自分も辛抱するから役場も辛抱するようにと言い聞かせていた。

村長退任後は、悠々自適、読書三昧の生活をおくり、昭和二十二年十一月、八十六歳の長寿を全うする。そして息子嘉雄が農協組合長、村長をつとめ活躍することになる。

(資料:畠山忠光、神成為治、神成キミ氏談)

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