河田 与八

河田与八 かわたよはち(1885~1960)旧鷹巣町


 

与八は明治十八年五月一日、現、鷹巣町元町六の五五、河田与市の二男として生まれた。明治三十六年三月秋田農学校(現大曲農業高校)を卒業、山林技手として営林署に勤務していたが、大正二年鷹巣農林学校教諭となり、農業、動物、農工、耕種を担任、永年勤務した。

その後、同校校長に昇進、昭和二十四年六月退職、翌二十五年三月、直腸癌で亡くなられた。

就任以来三十七年間、同一学校に勤続したのは全く珍しく、その教え子は数千人に及び、農林卒業生の思い出の中に、愛称「タコ先生」の面影が今なお鮮明に残っている。私も農林に学んだものの一人であるが、二、三年の時が河田先生の担任であった。

先生は大変几帳面な方で万事が誠実そのものという感があった。

教室での授業は、教科書に書いている以外は多くを語らなかったので、講義を聞き逃しても、あとで教科書を読めばわかるという安心感があった。試験の問題も、先輩に聞くと大体予想がつくので、集中的にその箇所を棒暗記したものである。「大切な箇所をキチンと覚えておけ」との示唆であったと思う。

午後の農業実習では、農場の桜並木の下で始業前の点呼をとるのだが、定刻になると、実習服に巻脚絆の先生の姿がキチンと立っていた。鍬の使い方がうまいとほめられたことを今でもおぼえている。

昭和二十二年八月十二日、米代川水域の大水害跡御視察のためご巡幸なされた天皇陛下は農林学校の見本林を視察された。後に従う河田校長に「これホシカミキリだね」と渡された。先生は直立不動の姿勢でそれをうけとってにぎりしめたが、掌をカミキリにかまれた。だが動くことができず、家にかえってから、「イタカッタデア」とそこを家族に見せたという。河田先生らしいひとコマである。

(資料:長男・河田芳一氏談)

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