和田 喜代治

和田喜代治 わだきよじ(1894~1980)旧鷹巣町


 

「和田のじっちゃ」の愛称で呼ばれ、自転車に山刀や鋏をつけて走りまわっていた和田喜代治さんの姿は今でも目に見えるような気がする。

公民館にもときどき寄られたので、郷土の歴史について話を聞いた。明治三十三年、鷹巣に初めて汽車がきた時のことを、「まっ黒い大きな物が煙をあげて進んで来たが、それが汽車というものだじおん」と、少年時代の感動を語ってくれた。

喜代治は明治二十七年二月、和田三次郎の長男として生まれ小学校高等科卒業後、父の後を継いで大工をしていたが、昭和三年からポンプ屋になる。昭和十三年、家族の反対をおし切って試験を受け搾井班の技術者となり戦地ハイラルに渡る。四十五歳、妻といっしょである。

やがて敗戦、彼はシベリヤに抑留され、昭和二十三年九月、復員するが、帰っている筈の妻はどこでどうなったのか待てど帰らなかった。二人の息子も戦死、結局すでに嫁いでいた長女夫婦を呼び寄せ、ポンプ屋として後を継がせ現在に至っている。

彼は何ごとにも誠心誠意、情熱をもって打ち込み、社会のために奉仕した。能代市の砂丘地帯はパイプに砂がつまり、ポンプ揚水は不可能とされていたが彼のたゆまぬ工夫研究により、昭和二十八年、竹生、須田、真壁地区の消火栓、かんがい用水を成功させた。また、南田中地区の防火用水の場合は消火栓を綴子川からとるべきであると、道路の必要性を強調している。

中央公園は今、桜や松の緑に包まれているが、和田さんの献身的な手入れのおかげである。六十歳をすぎてから書道クラブに入り、練習に励み、展覧会で入賞、八十歳をすぎてから、通信教育で造園の研究するなどまさに、高齢化社会における生涯学習のあり方の手本を見せてくれた人である。住吉町の和田ポンプには彼の表彰状、感謝状がいっぱい掲げてある。

(資料:渡辺勝蔵「和田老と私」並びに子息・善之助談)

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