佐藤 武右衛門

佐藤武右衛門 さとうぶえもん(1740~1818)旧鷹巣町


 

坊沢の肝煎、佐藤武右衛門は成田家十二代、吉右衛門の次男である。今泉村の豪農、佐藤七郎兵衛の家が没落の状態になったので、同家の姓を名のるようにと、能代港長慶寺の和尚(七郎兵衛の親戚)に頼まれ、佐藤姓となる。武右衛門の母は脇神村小ケ田、近藤与十郎の娘松恵で、安永七年、七十二歳で歿し、法名を「祖栄妙光大姉」と称しこの法名をもって自らの祖先として祀った。

坊沢で村入用額(税金の額)をめぐって肝煎(村長役)の長崎兵助と村人との争いがあり、遂に五人の義民が斬首の刑に処せられたのが享保十年(一七二五)であった。その後肝煎役は同じ長崎家の清左衛門家に移るが力が弱く、何代も変り能登谷佐治右衛門を経て、天明七年(一七八七)佐藤武右衛門が肝煎となる。

彼は以来文政元年(一八一八)まで三十二ヶ年の長さにわたって勤続した。この間、文化七年三ッ屋岱開発に意を用い、百二十石余の出高をあげ、その功により、永年苗字御免、二代二人扶持(今の年金のようなもの、一人扶持は一日五合)の御賞を受けた。

三ッ屋岱といえば、肝煎兵助が、坊沢に畑地が少いことを憂い脇神村の肝煎からゆずり受けた地帯である。今の阿仁合線鉄橋近辺(当時の米代川はもっと北の方を流れていた)の広い場所で三~四軒の小さな集落があった。

この土地に上流から水をもってきて水田化する作業はすでに開始されていたが、彼の努力により、鷹巣ぜきより分水を受ける協議が成立し、十数町に及ぶ美田が実現したのである。彼は誠実な人柄で指導力があり、長期にわたり安定した村政を築かれたことがうかがわれる。

文政元年、七十八歳で没す。坊沢大町、佐藤武右衛門さん(九二歳)は彼の子孫である。

(資料「坊沢郷土誌」)

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