簾内 多蔵

簾内多蔵 すのうちたぞう(1894~1959)旧鷹巣町


 

多蔵は明治二十七年、七座村今泉、簾内茂吉の長男として生まれた。七座小学校卒業後、当時全県唯一の大曲農学校に合格したが、折よく鷹巣にも農林学校ができたので、こちらに入り大正元年、郡立鷹巣農林学校の第一期生として卒業する。

彼は何ごとにも積極的で、多くの要職につき、村の発展に献身努力する。大正六年より昭和十七年まで在郷軍人分会長。昭和十四年より終戦の二十年まで七座村農会長。その他警防団長をつとめ、終戦後は公選制による教育委員に当選、昭和三十一年からは合併鷹巣町の町会議員となり現職のまま死去(六十五歳)

昭和十七年のことである。農会長の彼は九州熊本県に行き改良和牛(赤ベコ)百三十頭を買い入れ臨時貨物列車に乗せて意気揚々と鷹巣駅に到着した。

荷をおろそうとしたら、「その牛、おろしてならぬ。」との指令が県から入った。「秋田県は軍馬の生産地であるのに牛を入れると馬の徴発ができなくなる」というのが理由である。莫大な代金を支払って、ここまできたのに荷降しできなければ破産である。

彼はすぐ県庁畜産課にゆき「使える馬はすでに徴発されつくしこのままでは農耕ができないばかりか堆肥もできない」と説得し認めさせた。牛の組合員は百八十人に及び、戦後貧窮時代の家計と農耕に大きく役立ち、感謝のために薬師山に牛神社が建てられた。この神社は全国に京都と二つだけである。

また彼は、北海道小樽の漁業組合と契約し、大謀網に使う縄を、各戸になわせ、大量に販売した。耕地面積の少ないこの地区の農家の人々が、秋から冬にかけてどこの家でも縄ない機をガラガラ鳴らして得た収入は、どんなに生活をうるおしたかしれない。

その他、昭和八年に、郵便局と役場に初めて電話架設するなど、彼の足跡は大きかった。

(資料:ご長男・簾内茂彦氏の話による)

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