五義民

五義民 ごぎみん(不明~1726)旧鷹巣町


坊沢の村はずれ農免道路の近くに五義民碑が建っている。五義民とは享保九年、村入用額(税金)の過徴をめぐって肝煎兵助と村人の争いで村人は久保田藩(秋田市)に直訴し、五人が享保十年十一月六日、村はずれの桜木岱において斬罪に処せられた。その五人の義民のことである。

戸島与市右衛門(行年三十五歳)同、吉兵衛(二十八歳)同権助 成田喜左衛門、同 喜兵衛(四十一歳)の五人である。

前回紹介した肝煎長崎兵助は大変な手腕家で、村のため多くの仕事をするが、そのため村入用額(村税)がばく大なものとなって各戸に割り当てられた。その他に労役負担も大きい。伝によると、享保九年、高一石につき銭六十文の過徴があった。これは前年三月と七月の大洪水で水路が大破したことによるものだが、作柄も極めて悪く、ことため泣く者が多く、肝煎と村民の抗争は激しくなる。

村人は藩に実情を訴えるが、肝煎はひそかに上役人に手をまわしていたので敗訴となる。意を決し、村人は藩に直訴する。

当時、百姓が訴える時は村役人(肝煎と長百姓)がなすべきことで、それをしない直訴は、「上をさし越した罪」として厳罰に処せられることになっていた。この事件では二十一人が有罪(牢に入れられた)となり十六人が村から追放され、首謀者と目される五人が打首の刑に処せられ三昼夜さらされたとある。

また、死の直前に辞世の歌として、「ますらをのいのちは野路にさらすとも民のためには後を思へて、喜兵衛」「治まりし世と悟られぬ諸人の我が真心を神や守らん、喜左衛門」があり五人は、朗々とうたえをうたって死についたと伝えられている。

この事件については、いろいろないい伝えが残っているが、後世の人々が五人の義民を讃えてのことであろう。

(資料 坊沢郷土誌

 

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