長崎 兵助

長崎兵助 ながさきひょうすけ(16581729)旧鷹巣町


 

浅利の家臣長崎尾張を祖とする坊沢の長崎家は昔、代々肝煎役をつとめていた。兵助は六代目で万治元年、兵庫助茂長の嫡子として生れる。十六歳の時、父茂長が大館城代家中となったので、肝煎役を継ぎ、兵庫助を襲名する。享保二年、藩家老真崎兵庫の御名をはばかって兵庫助を兵助と改名する。

兵助は才智、手腕ともに非凡の人物で、肝煎在勤五十年間の業蹟は開田、山林・水利・神社寺院等村政万端に及んでいる。しかし晩年、彼が起こした五義民事件によって、その功績は忘れ去られがちになっている。

延宝八年、兵助は藩に打直検地を願って当高(課税対象)二百四十二石余の減高をしてもらい、更に翌天和元年には、小繁村詰伝馬(二ツ井町小繁に荷物を運ぶ馬を常駐)の割り当てを七十四軒から三十一軒に減免させ、村の負担軽減をはかった。

また、村に畑地の少ないのを憂い、元録十六年、脇神村字三ツ屋岱(現、阿仁合線鉄橋の北西部一帯)を脇神村よりゆずり受け村有としている。綴子川上関根は洪水のたびごとに田中村に水害をおよぼし、紛争が絶えなかったが、彼は新たに関筋の堀り替えを計画し、藩検使役の助力を得て田中村に敷地の提供を承諾させ、首尾よく工事を完了させた。

元録五年には菩提所永安寺の伽藍建築、宝永八年神明社地の拡張と御堂の再建、享保八年、黒沢村との木草山入合地設定、その他古川敷開田のこと等の功績により藩より数回表彰されたと、子孫清兵衛は覚え書きに残してある。

しかし、このような事業はすべて藩の許可が必要で、彼が上役に運動費用として使ったお金は大きく、税金の過徴をめぐって村人との抗争となり、久保田藩へ直訴した五人の義民が斬首の刑に処せられるという悲しい事件に発展するのである。

(資料、坊沢郷土誌)

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