佐賀 徳治

佐賀徳治 さがとくじ(1886~1966)旧鷹巣町


 

戦時中に鷹巣小学校や実科女学校に在学された人であれば、誰でも佐賀校長先生のことが印象にあると思う。長身で骨格の大きい方で、手にそうじ用具を持ち校舎をまわって歩かれている姿や、連日の陣場岱開墾のことを思い出すことであろう。

彼は明治十九年五月五日七座村黒沢の大川家に生まれ、のち大館市向町・佐賀氏を継ぐ。

彼は明治四十二年、秋田師範本科一部を卒業。若き教師として教育に情熱を傾けると共に、植物、地質研究に没頭し、夏休みには仙人のような姿で山野を踏破するのを常とした。その範囲は、北はカムチャッカから中国大陸及び台湾に及び、著書も多く全国的な権威者となった。

鷹巣小学校長兼町立実科女学校長としては昭和十年から二十一年までで「実践躬行」「不撓不屈」の佐賀精神で貫かれた十年間であった。校舎の大増築から始まり校地の一大庭園化、食糧増産のための陣場岱開墾約十㌶は、校長を陣頭に教師と児童生徒一丸となっての苦闘であった。

また、各教科の教材製作にとりくみ、とりわけ師弟一体となって作りあげた地図の立体模型は各方面から後々まで高く評価された。

彼は若い時から毎月計画的に図書を購入し、植物、鉱物、地質等の専門書や原書、欧米の地理書など、貴重な多くの図書を学校の応接間に備えつけ、自由に開放した。玉川大学、小原圀芳総長が来校の際、「小学校長で原書を読める人は全国的にもないことだ」と激賞された。

彼が常に口にする言葉に「好きこそものの上手なれ」「人間は大自然の子である」「教育は愛情である」と。

昭和二十一年退職後は大館公民館主事、大館桂高校講師として専門の知識を生かして活躍され、昭和四十一年四月二十六日八十歳で死去された。

(資料:二階堂善三氏の書かれた「教育秋田」三四三号「教育人物誌」による)

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