長岐 リヨ

長岐リヨ ながきりよ(1887~1939)旧鷹巣町


 

「孝婦の鑑(かがみ)」として昭和八年に秋田県知事から表彰された長岐リヨさんは、明治二十年十一月二十日、沢口村小森・笹原福松の三女に生まれ、明治三十六年、七日市村・長岐清太郎長男、健太郎に嫁いだ。

夫健太郎は頑丈な体で、近隣の草相撲で活躍していたが、明治三十五年、二十二歳の夏、相撲で肩と膝の骨を折った。すでに徴兵検査に合格し、快方に向っていたので入営したが、それがもとで数カ月で帰され、翌年リヨと結婚したのである。

いろいろ治療してみたが右肩と脚が意の如くならず農作業は半人前の仕事もできなかった。両親はすでに老境にあり、小作地を含めて水田百二十三a、畑二十aの耕作と家事一切がリヨの肩にかかっていた。

大正十一年、彼女が二男三女の母の時、姑サツが脳溢血で倒れ、全身身動きできない重態となった。六十八歳のしゅうと、半病人の夫、三人の義弟、五人の子をかかえ、彼女は毎朝三時に起き、病人の介抱、汚物の洗たくをすませてから朝食の仕度にかかるのであった。日中は人一倍働き、夜はおそくまでの家業を終えると、彼女は姑の枕もとに坐って、いろいろ世間話をして慰める毎日であった。

ところが大正十三年、しゅうとの清太郎が村の道路工事で岩石に脚をはさまれ、仕事のできない不具者となった。しかも四女ワキはさきに脳膜炎を患い全くの痴人であった。

泣くに泣かれぬ苦境の中にありながら、彼女は愚痴ひとつこぼさず、他人が様子を聞くと、「相変らずで」と、笑みを含んで答えるのであった。

昭和五年十一月七日、姑サツが臨終の時、親戚の一人が「誰か会いたい人はいないか。」と聞くと「リヨがそばにいるか、リヨさえそばにいれば誰もいらぬ。」といって静かに息を引きとった。

彼女は昭和十四年亡くなり、息子の九平さんが現在の戸主である。

(資料「小猿部に光る」)

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