三沢 富子

三沢富子 みさわとみこ(1820~1915)旧鷹巣町


大堤の神社わきに、明治の有名な歌人三沢富子の歌碑がある。

富子は文政三年、山本郡鵜川村(現八竜町)の素封家、三浦家に生まれ、十五歳のとき大堤の三沢彦右エ門に嫁ぎ、一男二女の母となった。三沢彦右エ門家はそのころ水田百十haを持つ大地主であった。

富子三十一歳の時、夫彦右エ門が死去、富子は寡を守り、長男慶を将来学者にしようと、その頃藩の儒学者平元謹有の門に入らせた。家庭での母の訓えの効もあり俊秀の誉れ高く、十九歳で結婚、一男をもうけたが、不幸病を得て廃疾の身となった。

うち続く不幸の中で、富子は近郷きっての豪農の家政万般を処理し、余暇を求めては書を独学し、歌を詠むことを楽しみとし、遂には独自の境地を開くようになり名高い歌人となった。

明治二十二年、富子の古稀(七十歳)の祝いに“寄松祝”の題で全国数百の知名歌人から四百六十余首の祝歌が寄せられ、富子はそれを歌集にし、知っている友人たちに配った。富子の詠歌は

はかなしとなに思ひけん 世の中は

ただうたたねの ゆめのうき橋

富子は近郷はもとより、中央に多く知られ、渡辺古渓、疋田孝子、村上波門、同秀子、宮内省御用掛富沢政恕などの歌人とともに歌道に精進した。

同郷の高橋永助の孫が北海道で病死されたのを悼んで

梅さくらまだこむ春を 咲くものを

ゆきてかへらぬ 身こそおしけれ

と、達筆をふるって書かれたこの歌は、綴子宝勝寺におさめられてある。

大正四年、九十六歳で亡くなられた。

(資料「綴子村史」並びに村上薫氏調査原稿)

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