河田 与惣左衛門

河田与惣左衛門 かわたよそうざえもん(1875~1945)旧鷹巣町


 

鷹巣小学校在学当時の思い出の中に「河与のダンナ」のことが印象にある。四大節の拝賀式に人力車でこられ、ピンとひげを生やした恰幅のよい姿を式場にあらわし来賓席に立っておられた。貴族院議員、河田与惣左衛門氏である。

彼は明治八年、鷹巣町元町(旧三吉町)の豪農、河田与惣兵衛の二男として生まれ、家を継ぎ明治四十二年、三十四歳で多額納税者として貴族院議員に当選、皇族、華族たちと議席を同じくして国政に参与する。

また大正八年十月郡会議員に当選同年八月から四年間町長に就任、町政、郡政につとめる。

当時鷹巣周辺の水田地帯には諸々にアシヤ、ガジギが密生し排水が悪く、田下駄(板)をはかないと作業ができない所が多く、米の収量も少なかった。彼は耕地整理組合の委員となり会計を担当百六十㌶に及ぶ乾田化工事を成功させた。また、二宮尊徳を学ぶ「報徳社」を創立、勤労を重んじ隣保互助の精神を普及するなど社会教育活動につとめた。

河田家には多くの小作人がいたが、地主と小作人の「和」をはかるため信用購買組合を結成日用品を市価より安く入手させるなどの便誼をはかり、対話もよくした。

大正初期は凶作と不況が続き学校に弁当を持ってこれない児童がかなりいた。彼は欠食児三十三名(通算)に数年間にわたり米飯と副食の給食を施し、当時の資産家には類例のない徳行であった。

美男子でひげがあり貴公子の風格が公家官職の正三位大納言によく似ているというので「大納言さん」のニックネームをつけられ、号を丹楓と称し和歌や俳句をよくし、興わけば直ち筆をとるという文化人でもあった。

  • 山寺やなき親思うくれの鐘
  • 落る花眠る親子の乞食かな
  • 先きになり後にもなるや帰る雁

昭和二十年没。現在の当主は孫の誠二氏である。

(資料:村上薫氏調査原稿並びに「鷹巣郷土誌」)

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