神成 文吉

神成文吉 かんなりぶんきち(1869~1902)旧鷹巣町


 

明治二年、鷹巣町・神成久衛門の次男として生まれる。明治二十一年、陸軍教導団歩兵科卒業下士官を経て、同三十四年五月大尉に昇任、青森歩兵第五聠隊の中隊長となる。士族でなければ士官学校に入れない時代に、平民で将校になった彼は抜群の成績であった。

その頃、日露戦争が必ず起きるとみられ、もし津軽海峡がロシア艦隊に占領され、艦砲射撃で陸路が遮断された場合、八甲田山系を通って軍の移動が可能かどうか論議されていた。青森第五聠隊と弘前第三十一聠隊がそれぞれ実地にあたってみることになった。

明治三十五年、青森第五聠隊の大隊長山口少佐は神成大尉に、「一月二十三日、大隊古兵をもって中隊を編成し、田代に向かって一泊行軍を行う」ことを命じ自らも随行することにした。

当日、午前六時五十五分、雪中行軍隊二百十名は、荷物を積んだソリ十四台を後続に、ラッパの音も高らかに営門を出た。

田茂木野までは人の歩いた跡があったがそれから先はなくなり、昼ごろには天候が急変し猛吹雪となった。昼食のニギリメシは石のように固く凍っていた。

沈着さと適切な判断力を持つ神成大尉は危険を感じ、行軍を中止し帰営しようとしたが、山口少佐は強行を命じ、以後指揮権を奪い、つぎつぎと誤った判断の命令をくだした。下士官兵卒は吹雪の荒野に道を迷い疲労と睡眠不足に夢遊病者のようにさまよい歩き、枯木のようにつぎつぎと雪の中に倒れた。二十五日まで生存者僅か十一名を残し、全滅状態となった。最後までたたかった神成大尉の死体も雪中から発見された。

新田次郎著「八甲田死の彷徨」は当時の記録をもとに書かれ映画となって当町でも上映された。

神成大尉の実家の当主は東横町(旧学校通り)神成茂夫氏である。

(資料:昭和46年・秋田魁新聞所載「秋田人物記」、新田次郎著「八甲田死の彷徨」、)

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