和田 喜八郎

和田喜八郎 わだきはちろう(1873~1936)旧鷹巣町


 

明治五年、鷹巣村に生まれる。幼少の頃父を失い、家は貧しく学校を中途退学して郡役所の給仕となり家計を助けていた。まじめによく働き、先輩から目をかけられ特に、時の村長成田儀八郎に可愛がられ、いろいろ世話になった。

鷹巣小学校から秋田師範学校に進み明治三十六年、卒業後東京高等師範、文科に入り、卒業して秋田師範学校教諭となり、かたわら付属小学校長を勤める。

その後、高等師範学校研究生として中国に渡り四川省、成都高等学堂講師を五年間勤め、中国の研究を深める。

帰国後は愛知師範教諭、函館師範学校長、沖縄師範学校長、宮城高等女学校長を経て、大正十三年、再び母校秋田師範学校に転じ、以来昭和七年まで同校校長として、その手腕をたたえられた。退職後は、土崎商業高校長となり、かたわら秋田県教育会長として全県の教育刷新に大きく貢献する。

彼は郷土の教育に熱心で、特に先賢の徳をしのび、その顕彰に意を用いた。成田直衛翁顕彰のため銅像を建てる話があった時、「銅像を建ててもカラスの糞をかぶるばかりだ。図書館を設立して青少年の向学に役だてるべきである」と主張し、図書館を設立し、蔵書の大半を寄贈した。成田翁記念図書館はよく活用され、多くの人材養成に役立ったが、惜しいことに昭和二十五年の大火で焼失した。

昭和十一年、六十五歳で亡くなられた彼の葬儀は秋田県教育会葬として盛大に挙行された。その後、三沢元、佐賀徳治、二階堂善三氏等により「和田喜八郎伝」が刊行され教育界に広くくばられた。その中に、彼のプロフィルとして「休息を知らぬ活動家で、強度の近眼鏡を光らせ肩を張り手を振って忙しそうに歩く姿は何人の眼にもほうふとする先生の印象である」と述べている。

(資料「鷹巣郷土誌」「和田喜八郎伝」)

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