高橋 本吉

高橋本吉 たかはしもときち(1873~1920)旧鷹巣町


 

明治六年二月、綴子上町、高橋庄吉の長男として生まれる。幼い頃から知能が優れ、体格もよく、大人をしのぐ程であった。

さらに時の綴子小学校長内藤湖南先生からの感化もあり、秋田師範に入り、卒業して南秋田郡飯田川小学校訓導となる。鉄道のない時代で、毎週土曜日には二十四㌔の道を歩いて秋田市に行き、新刊書を求めて勉強するという精力家であった。

在職二年、家は貧しかったが高等師範に入学。卒業して早稲田中学の教師となり、また男爵郷氏の家庭教師も勤める。

政治への関心の深い彼は、「育英と政治とは帰するところ一つである」と悟り、明治三十五年、アメリカに渡り、プリストン大学に入り、総長、ウイルソン博士(後の大統領)について政治、経済学を専攻、マスターオブアーツの学位を授けられる。

明治四十年八月、南満州鉄道に入社、その後関東都督秘書官、同課長、英国ジアデンマゼソン商会、南満太興合名会社などに勤め、その間シベリア鉄道経由で欧米十八カ国を視察するなど、絶えざる勉強を続ける。

大正六年四月、衆望を担い本県郡部選出の代議士に当選、九月には内藤湖南博士と共に四カ月間支那大陸を視察、対支、対米問題についての識見では衆議院内でも卓抜し、原敬首相の信望がすこぶる厚かった。

大正九年五月本県第三区から強敵、町田忠治氏を破って再び当選するや、米国事情取りしらべの重大使命をおびてアメリカに渡る。到着してわずか三日、十一月二十六日、シアトルの駅で倒れ、ついに帰らぬ人となった。時に四十八歳であった。

内藤湖南は彼を許して「彼は友をえらぶにきびしく、彼と親しく交わる友は、心の底からとけ合う人で、みんな力強い存在であった」と書いてある。

生家は上町にあるが、戸主の正男氏は東京の方に出て、空家になっている。本吉の三女種子は、皇太子殿下の家庭教師であったバイニング夫人の秘書として渡米し、アメリカにいる。

(資料「綴子村史」)

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