成田 直衛

成田直衛 なりたなおえい(1848~1918)旧鷹巣町


 

昨年九月八日、町内外の多くの有志が金を出し合って、児童公園に成田直衛翁の胸像を建てた。その趣旨は

「鷹巣町を現在の姿に発展させた成田直衛翁のことを未来の担い手である青少年に伝え、愛町の精神を培いたい。」というのであった。

直衛は嘉永元年(一八四八)鷹巣村成田良左衛門の次男として生まれ、他家に養子になったが、兄が亡くなったので実家にもどって後を継いだ。

十七歳の時、秋田市の根岸靱負の門に入り文学、弓馬、刀剣の術を学び、秋田藩郷士となり、明治元年戊辰の役では扇田で南部藩の兵士と戦いてがらをたて藩主より刀一振を賜わる。

世は明治の新時代に入るが、時の流れに敏感な彼は、一時妻子と別れ東京に出て福沢諭吉の門に入る。 二十六歳の彼は、「自分は一番年長者で、多くの少年たちと洋学を勉強するのは、くすぐったい気持であったが、新しいことを学ぶ最初の窓口となった。」と、気持を書いている。

その後、法制学者細川潤次郎の門に移り、新しい世の政治思想を学び、大いに傾倒する。

新しい制度はできても固まらず混とんたる状態であった時に、彼は郷里に帰り、村長となり県職員になり、大牧場を経営するなどするが、明治十二年、三十二歳で第一回県会議員に当選し初代議長に推される。

そして、鷹巣村に郡役所、県立農林学校、奥羽線の駅を誘置し、明治十四年には明治天皇の東北御巡幸を請願し、自邸を御昼行在所にしてお迎えした。

また、衆議院議員に当選すること四回、中央でも大活躍し、秋田鉱山専門学校の誘置や、雄物川改修、船川線敷設運動、県育英会創設などで県発展のために貢献する。

成田重右衛門氏は彼の曽孫である。

(資料:二階堂善三著「成田直衛翁伝」)

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