成田 秋斎

成田秋斎 なりたしゅうさい(1802~1876)旧鷹巣町


 

鷹巣小学校の校門を入ると、自転車置場のわきに「成田秋斎先生之碑」がある。碑文は漢文で、幕末の頃鷹巣村の肝煎として村民を救うためにつくした功績をくわしく書いてある。

彼の本名は、成田庫之助といい、元慶と称し、秋斎と号していた。幼い頃から、よく和漢の学を修め、十七~八歳のころから肝煎見習い役をつとめ、文政七年(一八二四)に親郷肝煎に就任した。父、兵左エ門家長も肝煎として防災や社会教育によくつとめていたので、親子二代にわたる鷹巣村発展に寄与した功績はまことに大きい。

当時の米代川は毎年、大雨が降ると氾らんし、水につかった稲は稔らず大変な飢餓状態が続いていた。特に天保四年(一八三三)の大凶作では、冷害や伝染病も重なり、坊沢で八百十七人、七日市で二百七十五人の死者が出ているが、鷹巣では郷倉の備蓄米を放出し村民に与えたので、餓死者を殆んど出さなかった。

嘉永六年(一八五三)彼は、増水したときの川の流れをゆるやかにするために、大きな溝を掘る大工事に着手する。六千人の人夫を要するこの作業に連日連夜、現場指導にあたりこれを成功させた。さらに「三文講」や「カヤ屋根無尽法」などを定め事ある時の農家経済の安定につとめた。

彼は、忙しい公務の中で、自宅に塾を開き、村の子弟を教育し、後継者の育成につとめた。彼の教育を受けた人々は数百人におよび方々の村の指導者として活躍した。

また、年に二~三回は村人をお寺や郷倉に集め、農業経営の講話や、人間としての生き方を説き聞かせた。その内容が著書となり、「論書三冊纒」「心の垣」「八重穂付録」「農談の論書」となって後世に残された。

仲町の故成田元裕氏が彼から五代目の孫にあたる。

(資料「鷹巣郷土誌」)

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