長崎 七左衛門

長崎七左衛門 ながさきしちざえもん(1731~1820)旧鷹巣町


 

藩政時代、七日市村の長岐家は代々肝煎(きもいり=世話役のこと)を務めていたが、坊沢の長崎家から養子をむかえて後継ぎさせたことから、五代から八代まで「長崎」の姓を名のっている。七代、七左衛門も長崎家からの養子で、宝暦五年(一七五六)二十五歳で親郷肝煎に就任した。

その頃のこの地方は、冷害、虫害で稲は稔らず、洪水で田畑は流され、大変な区作が続いていた。特に天明三年(一七八三)には十月七日に大雪が降り、チプスが発生、七日市竜泉寺壇徒、二百十五人が死んでいる。人々はは山野をさまよい歩き、葛の根を探して掘って食べるというありさまであった。

このような農村生活の惨状の中で七左衛門は、農民を救うために、何としても農業経営の安定を確かなものにしなければいけないと考え、勤勉と倹約を説きながら着々事業を遂行した。

彼が在任中の五十余年間に、私財を投じ、人々を督励し、水利、冶水の工事を完成させた小猿部川の箇所は十数箇所に及ぶ。

その作業はタガネで岩穴を堀り、大きな岩のかたまりを切り落して川をせき止めるなど大変な難工事であった。その関根の跡は今も残り、水路の一部は今も使われている。

彼は天明の大飢饉の時でも、農業に熱心な者は被害が少なかったことを知り、老人から種子苗代、本田の管理のことを聞き書きし、「老農置土産」「農業心得記」、「老農おきみやげそい日記」などを著している。後日、石川理紀之助翁は彼の著書を研究し、秋田県地方の農業のあり方を指導している。

村の一軒一軒の将来を考えての愛情あふるる指導は小猿部の人々に長く語りつがれている。

(資料「小猿部に光る」)

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