桐沢 嘉六

桐沢嘉六 きりさわかろく(江戸中期)旧鷹巣町


 

坊沢の長崎家(系譜不詳)に生まれ、家が貧しく、毎日柴刈りに出たが山に行かず、寺で和尚の教えを聞いていた。

二十歳の時、家を出て久保田(今の秋田市)の豪商、塩辛勘兵衛に仕えた。或る日、虫干しの際一冊の本を見つけ、開いてみると彫刻の秘伝が書いてある。これをふところに入れ、能代に行き彫刻に専念するようになったのが二十九歳の時であった。

彼は武田人形というものを作っていたが或る時、小鶏(チャボ)の雌雄を彫刻し、店先に置き、籠をかぶせて米をまいたところ、あたかも生きているように見えた。たまたま一人の魚商がそれを見て「鳥や獣の眼は人と反対で、目をつむる時は、下瞼を上瞼に合わせるものなのに、この鳥は人と同じく、上瞼を下瞼に合わせている」と、笑った。彼は己れの未熟を恥じ、ますます発奮して技術をみがいた。

また或る時、彼は一室にとじこもり、家の人の出入りを禁じ、一人でノミをふるっていた。たまたま急用で外出した間に、妻は、「夫が何を作っているだろう」と、禁を破って部屋に入ってみると、一人の美女が立っている。嫉妬のあまりカッとなった彼女はオノをもってたたきつけたところ、それは夫の彫刻作品とわかり声をあげて泣いた。帰宅した嘉六はその有様を見て長い間の苦心が一瞬の間に水泡に帰したが、これもまた天命であるとあきらめた。

嘉六はその後、尾張候に召され金沢城築城に貢献したが、完成すると、秘密が漏れることをおそれ秘かに暗殺されたという。

嘉六の姓「桐沢」は長崎家の菩提寺である永安寺の山号「桐沢山」より出たものと伝えられている。生年、没年とも不明である。

(資料「坊沢郷土誌」「秋田県人名大事典」)

この記事を見た方はこんな記事も見ています

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です