千葉常左衛門 ちばじょうざえもん(1800~1871)旧鷹巣町
文政四年(一八二一)二十二歳になった常左衛門は父の急死で、闇夜に厳冬の荒野に立たされた思いであった。
七日市・横渕村肝煎の家に生まれた彼であるが、父は大野台の入会問題で金を使い果たし村はもとより自らも赤貧洗うか如き生活であった。郡奉行蓮沼仲のすすめにより、養蚕業によって一郷の更生をはかることを考え失敗を重ねながら、ようやく曙光を見い出した失先のことであった。温厚な人柄の彼は、平田篤胤の学を究め、忠と孝の精神を根本にして、肝煎の役に就任、父の遺業を継承した。
山桑を求めて実を集め、桑園を造ることから、蚕の飼育技術の改善と、夜も体む暇のない東奔西走であった。その甲斐あって近郷に養蚕業が普及し、繭の生産二百余石、生糸二駄を収めるようになる。
更に、これを織物にすることにより高価に販売することを考え、機織物を設ける。先進地に学びながら種々難渋するが、機具の改善から染色の工夫により、遂に「八丈畝織」という最上質の織物をあみ出し、年間、千反以上を産するようになる。その功により名字帯刀を許されるが、彼はこれをうけなかった。
嘉永に至り老中水野越前守は庶民のぜいたくを戒め節険令を下し、一般の人の絹物着用を禁ずる。絹織業に精魂を傾けてきた彼には、まさに一大鉄鎚を下された思いであった。
当時彼の機織場には三十台の機械と六十人の使用人がいた。使用人は盲人と脚の悪い人々であった。工場を閉鎖すればこの身障者を路頭に迷わせ、続ければ破産が目に見えている。彼は捨て身になって事業を継続するうちに節険令もゆるみ活路を見い出すことになる。
(資料「小猿部に光る」)