白川 徳右エ門

白川徳右エ門 しらかわとくうえもん(1781~1822)旧鷹巣町


 

坊沢の永安寺に「徳の力石」という花崗岩の大きな石がある。重さ七百五十キロのこの石は、力士白川徳右エ門が、一向宗門徒の墓として持ち運んできたものと、伝えられている。文化文政の頃、江戸相撲の大関にまでなった徳右エ門は、天明元年坊沢の能登谷家(後に津谷と改姓)に生れ、幼い頃から母に似て体の大きい人であった。

早く父に死別し、貧しい生活を送っていた徳右エ門が十六歳の時、米内沢村に江戸相撲の巡業があった。身長一八○糎、胸幅広く、体重一二○キロ、力は抜群の彼に目をつけた大関小野川は、江戸につれてゆき「山姿徳右エ門」と名のらせる。修業すること数年、柏戸宗五郎親方の弟子となり「桑の弓徳右エ門」と改名、大関にまで昇進する。

江戸諸大名高覧の相撲があった。彼の活躍を見込んだ尾張侯はお抱力士とし、「白川徳右エ門」と改名する。

将軍、徳川家斎上覧相撲があった。将軍家お抱え力士某は、前夜ひそかに彼を訪れ、金子三百両を出し「明日の勝負をゆずってくれ。」と哀願する。彼は同情して承諾するが、さて、翌日現場に行ってみると、尾張侯をはじめ、居並ぶ諸侯を見て、二度まで勝ってしまった。

尾張侯は、彼の身に危険の及ぶことを心配し、暇を与えて郷里に帰らせる。

彼に得意の三手(ナタ、シボリ、ソコベ)があり、彼が怪力でそれを使うと相手を死に至らしめるということで、柏戸親方に禁じられていたが、その手で関破りの某を倒し一門を救った話も有名である。

柏戸一行が津軽に巡業の際、彼は文吉という剛の者を片手で投げとばし、恨みを買って毒殺される。時に文政四年、四十二歳であった。

(資料「坊沢郷土誌」)

この記事を見た方はこんな記事も見ています

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です