宮野 尹賢

宮野尹賢 みやのいんけん(1682~1757)旧鷹巣町


江戸時代中期のこの地方は、新田開発が飛躍的に進んだ時代であった。尹賢は綴子の豪農の家に生れ、「伊兵衛」と称し「時敏斎」と号していた。彼の先祖が扇田から移住したのは、新田開発と関係があるものと思われる。

彼の性格は明るく、こせこせせず、広い心の持ち主であった。幼い時から学問を好み、四書五経など、よく本を読んでいた。

二十歳になった彼は、向学の志やみがたく京都にのぼり、大学者、伊藤仁斎の門に入る。当時京都では儒学や国学の研究が盛んで、いくつもの学派にわかれ活発な論争が行われていた。伊藤仁斎の「堀川派」は人の道は「仁義」であるとし、それは、あくまでも実際に行うことでなければならぬと主張していた。こうした学風を身につけた彼は郷里に帰って多くの人々に自分の思想を広めようと考えた。

時に正徳四年、三十三歳の彼は希望に燃えて綴子内館塾の教授となる。彼のもとには多くの門弟が集まって熱心に講義を聞いた。彼は京都から一女性をつれてきて、礼儀作法の実演指導にあたらせた。大館城主佐竹候は彼の学説を聞こうとして出張講義を求めたが、彼は応じなかったので殿様自らが出てきて数日間講義を受けたという。

彼の蔵書は数万巻におよび、京都でも求めがたい珍しい本も少なくなかった。本は大きな倉庫に納められ、常時人を雇って整理にあたらせていた。

彼は読書中、心が散ることを恐れ、書斎には誰も入ることを許さず、お茶の給仕も長い柄のついた器で差し出させたと伝えられている。

著書、写本、書簡など三十余種が内館文庫に所蔵され、秋田県文化財として指定されている。

(資料「綴子村史」「秋田人物大事典」)

 

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