長谷川 伊右衛門

栄の太田は昔、「太田新田村」と称していた。今のあけぼの町から東小学校方面に広がる水田地帯は洪水のたびごとに提防や水路が破壊され田畑は砂利で埋まる箇所が多かった。田畑を失った人々は、泣く泣く村を離れて行き、時には全戸数が半減することもあった。太田新田村、長百姓八代目伊右ェ門(家政)は村を治めることは水を治めることであると考え、自らすすんで普請役を引き受け、水利工事の設計を立て、工事の指導監督に当った。

特に、天保二年六月の大洪水では、水源である堰根留がこわされたので、彼は現地に苫小屋を造り、一ヵ月以上寝泊りしながら大工事を完成させた。しかしそれも万全でなく、天保十二年、藩に願いでて、早口川から長い墜道で水を引くことを企画し、同十五年(一八四四)に竣工、太田新田村の生活はようやく安定する。

また、土地の境界線のことで隣の糠沢村、綴子村との紛争が絶えず、解決したとたんに気のゆるみから病気になり九年間病床に伏すことになる。その間に、薬学や鍼灸を研究し、村人の治療もしてやる。八十六歳という長命を保つことができたのは彼の医学と健康法の実践によるものであろう。

彼は子弟の教育の重要なことを考え、苫小屋時代にも夜は算術や習字を教えた。晩年には、私塾を開き、読書、作文、算術修身、習字などの課程を設け多くの子弟を教育した。かたわら宗教や、芸術にうち込んだ。特に彫刻に興味があり、夜を徹して神仏の像を彫り、これを神社仏閣に寄贈され、綴子宝勝寺の十王像、大館、辺照院の不動明王像などが今に残っている。漆塗りの技術も独特の空色、浅黄色を表現するなど、卓抜した才能の持ち主であった。

十二代目啓司さん(注:故人)が太田郵便局長をしておられる。

(資料:「栄郷土誌」)

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