長岐 貞治

七日市の長岐家の宗家は、代代肝煎をつとめてきた。早く父に死別した貞治は文久元年(一八六一)十三歳で親郷肝煎に就任、明治四年の廃藩置県で「肝煎」が「戸長」になり、二十二年には「村長」と名称が変わる。

貞治は村長をつとめながら、郡会や県会の議員に当選、議長にもなる。更に、県畜産協議会長として大活躍するが、明治三十七年、五十五歳の生涯を閉じるまで公私分かたず村政発展に尽力した。

彼は心から村民を愛した。毎年正月元日の朝、産土神社への初詣がすむと、本郷八十余戸を一軒残らず回り、一家のため祝福を述べて歩いた。また、よく朝早く部落をまわり、村人を激励し、ときには説論することもあった。

幼くして父を失った貞治であったが学問を好み、常に四書五経(儒学)をひもとき、新刊書を読み、自らの修養を怠らなかった。彼はその驚くべき記憶力と聡明さを持ちながら常に嫌虚で他人の悪口を言わず、人に悪い思いをさせることがなかった。

彼の村長時代、最も力を注いだのは教育であった。県畜産振興のため、全国を奔走するようになってからは、常に留守がちで、一週間以上の旅行になると必ず、村のことや教育のことについて校長に手紙をよこし、学校長がくわしく返事を出すと、帰ってから厚く礼をいうのを常とした。村財政が窮乏し、教員の俸給不払いが続いた時、「俺が悪かった」と、財布の金を校長に手渡したことや、創設されたばかりの実業補習学校の設備充実に私財を投ずるなど数々のエピソードが伝わっている。

明治四十一年、彼の秋田県畜産振興に貢献した功績をたたえる顕彰碑が秋田の県民会館のそばに建てられた。

今、七日市の長岐邸には孫のエイさん(注:故人)が独り静かに暮している。

(資料「小猿部に光る」)

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