青山 隆太郎

黒鉱の「自熔製錬法」の完成に功労 青山 隆太郎(1870~1931年)旧阿仁町


青山家の祖は、17世紀中ごろ向銀山の経営にあたった山師青山清左衛門である。

隆太郎は明治2年(1869)12月、青山猪太郎の長男として真木沢に生まれた。正右衛門の子孫である。

小学校を卒業すると、官営の阿仁鉱山に入り、分析見習係から精錬係となった。(このころの分析見習い係はいわゆるエリートコースであった)その後、明治18年(1885年)阿仁鉱山は古河市兵衛に払い下げられ、翌19年になると阿仁鉱山の整理が行われた。隆太郎はこの折に鹿角郡小坂町にある小坂鉱山の精錬技師として抜擢され、ここでも精錬係となった。小坂鉱山は当時日本一と謳われるほどの銀山であったが、明治30年頃になると銀貨が暴落し、銀の埋蔵量自体にもかげりがみえたことから、閉山寸前に追い込まれていた。危機的状況を脱するべく、小坂鉱山ではそれまで精錬が困難で利用されてなかった黒鉱から銅を取ることを考えた。黒鉱とは、金・銀・鉛・カドミウム・亜鉛といった不純物を多く含んだ銅鉱石で、その精錬は難しいとされており、小坂鉱山の技術者は起死回生をかけてこの技術の開発に取り組むこととなった。そして明治33年(1900年)、ついに生鉱精錬法を成功させた。この精錬法を効果的にした羽口炭(※これがよくわかりません)を考案したのが隆太郎であった。明治40年(1907年)、茨城県の日立鉱山に移った隆太郎は上司の認めるところとなって精錬課長を務め、のち副所長に栄進し、遂に巨万の富を得た。

昭和3年(1928年)、60歳で鉱山を退職して水戸に居住したが、その後も鉱山の相談役として事業に関わってきた。昭和6年(1931年)7月3日没、63歳であった。

氏は小学校卒業のみの学歴であったが、業務のかたわら独学で研究に励み、実施の経験と一体となって他の通従を許さないものであった。氏の成功は不断の努力と多年にわたっての経験によるものというべきである。

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